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知っている人

Bar Aoi の物語

知っている人

5分
気分 · 考えたい
2026-09-25

長く付き合っていれば、その人のことをよく知っていると思う。 好きなものも、嫌いなものも、いつもの酒も知っている。でも、知っていることが増えるほど、その人が分からなくなることだってあるのかもしれない。

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なあ、あんた。

長く付き合っている人のことなら、よく知ってるか?

好きな食べ物。嫌いな食べ物。好きな本。好きな映画。いつも飲んでいる酒。

そういうものをたくさん知っていれば、その人のことを「よく知っている」と言えるんだろうか。

それとも俺たちは。

知っていることを材料にして、勝手に「こういう人だ」と完成させているだけなんだろうか。

カラン。

グラスの中で氷が鳴った。

今日も俺の前にあるのは、I.W.ハーパーだ。

「そういえば健一さん、スコッチって飲まないっすよね」

タカが俺のグラスを見ながら言った。

「飲まないな」
「バーボン派だから?」
「いや。苦手なんだよ」
「スコッチが?」
「ああ」
「何が駄目なんすか?」
「煙い」

タカの手が止まった。

「……煙い?」
「煙いだろ、あれ」

カウンターの向こうでママが笑った。

「ピート香のこと?」
「知らん」
「知らないの?」
「名前なんか知らんよ。煙いもんは煙い」
「健一さん、意外とお酒に詳しくないんすね」
「詳しいなんて言ったことねえぞ」
「だって、いつもハーパーじゃないですか」
「そうだな」
「じゃあ、8年と12年だったらどっちが好きなんです?」
「わからん」
「え?」
「飲み比べても、たぶんわからん」

タカが俺のグラスを見た。

「……ハーパー好きなんですよね?」
「別に」
「別に?」
「嫌いじゃないけどな」
「じゃあ、なんで毎回……」

そこまで言って、タカが口を閉じた。

「ああ」

トムも小さく頷いた。ママは何も言わなかった。

みんな知っている。

昔、真人が喧嘩をした日のことを。誰かを守るために殴って、殴られて。その後で俺が飲んだ酒が、ハーパーだったことを。

「そういうことだ」

俺が言うと、タカはしばらく考えていた。

「じゃあ、好きだから飲んでるわけじゃないんすね」
「そうなるな」
「なんか変な感じっすね」
「何が?」
「健一さんって、酒にこだわりがある人だと思ってたから」
「勝手に決めんな」
「だって、いつもバーボン飲んでるオッサンですよ?」
「誰がオッサンだ」
「そこは否定できないでしょ」

ママが笑った。まあ、否定はできない。

「じゃあさ」

トムが面白そうにこっちを見た。

「健一さん、焼き鳥屋では何を頼む?」
「なんだよ急に」
「砂肝」

タカが言った。

「ハツも食いそうっすね。塩で」
「頼まねえよ」
「え?」
「アスパラベーコン巻き」

沈黙。

「……アスパラベーコン巻き?」
「そうだよ」
「健一さんが?」
「俺が食っちゃいけねえのか」
「いや、そうじゃないっすけど」
「うまいだろ、アスパラベーコン」
「うまいっすけど……」

タカは何か納得できないらしい。

「じゃあ甘いものは?」
「好きだぞ」
「え?」
「なんだよ」
「いや、食べないと思ってた」
「食うよ」
「何が好きなんすか?」
「ミスド」
「ミスド?」
「ポン・デ・リングとか」

ちょっと待ってください、とタカが額を押さえた。

「さっきから俺の中の健一さんが、どんどん壊れてるんすけど」
「だから勝手に作んなって」

トムが笑っている。

「映画は?」
「映画?」
「恋愛映画とか見ないでしょ?」
「昔、『世界の中心で、愛をさけぶ』を映画館で見たぞ」
「誰と?」
「一人で」
「泣いた?」
「号泣した」

タカが天井を見上げた。

「もうやめましょう」
「お前が聞いたんだろ」
「なんか知りたくなってきた」

トムが完全に面白がっている。

「好きな小説は?」
「『レダ』」
「栗本薫の?」
「そう」
「おお」

タカが少し安心したような顔をした。

「それはなんかわかる。じゃあ漫画は?」
「刃牙」
「なんで急にそっち行くんすか」
「何がだよ」
「『レダ』から刃牙に行かないでしょ、普通」
「行ったんだからしょうがねえだろ」

ママがくすくす笑っている。

「嫌いな飲み物は?」
「野菜ジュース」
「毎朝飲んでるって言ってませんでした?」
「飲んでる」
「好きじゃないんすか?」
「嫌いだよ。まずい」
「じゃあなんで毎日飲んでんすか」
「真人が飲めって言うから」
「……健一さん、真人君の言うこと聞くんすね」
「身体にいいって言うんだからしょうがねえだろ」
「嫌いなのに?」
「嫌いでも身体にはいいんだろ」
「そこは妙に素直なんすね」

うるせえ。

「じゃあ嫌いな食べ物」
「ナス」
「理由は?」
「ナスだから」
「それ理由じゃないっすよ」
「嫌いな食い物に理由なんかいるか」

ひとしきり笑ったあと、トムが言った。

「面白いね」
「何が?」
「僕たち、健一さんのこと、かなり知ってると思ってた」
「知ってるだろ」
「うん。でも、知らなかった」
「そりゃ知らんことくらいあるだろ」
「そうじゃなくて」

トムは少し考えた。

「知ってることが増えたのに、前よりわからなくなった」

タカも頷いた。

「それはわかる。俺、健一さんってもっとこう……渋いオッサンだと思ってたんすよ」
「なんだよ、渋いオッサンって」
「ハーパー飲みながら人生について面倒くさいこと考えてる人」
「だいたい合ってるじゃねえか」
「でもポン・デ・リング食うんでしょ?」
「食うよ」
「アスパラベーコン巻きも?」
「食う」
「セカチューで泣く?」
「泣いた」
「刃牙?」
「好きだよ」
「わからん」
「知らねえよ」

ママが新しい氷をグラスに落とした。

「でも、人ってそんなものじゃない?」
「ママ?」
「好きなものを並べたって、その人の説明書にはならないでしょう?」

俺はグラスを見た。

確かにそうかもしれない。

ハーパーが特別でも、ハーパーの味に詳しいわけじゃない。野菜ジュースが嫌いでも、毎朝飲んでいる。恋愛映画で泣くし、男たちが殴り合う漫画も好きだ。

その一つ一つは、全部俺だ。

でも。

全部並べたところで、それが俺なのかと言われると、よくわからない。

「じゃあさ」

タカが言った。

「何を知ってたら、その人のことを知ってるって言えるんすかね」
「知らん」
「そこは考えてくださいよ」
「なんで俺が答え持ってる前提なんだよ」
「いつもそれっぽいこと言うじゃないですか」
「それっぽいだけだよ」

ママが笑った。

「それは知ってるわ」
「おい」

「じゃあ、これはどう思います?」

タカがスマホを取り出して、カウンターに置いた。

画面でショート動画が流れている。世界陸上の棒高跳びだった。選手が助走を始め、長い棒を地面に突き立てる。棒が弓なりに大きくしなり、その反動で身体が宙へ跳ね上がった。

バーを鮮やかに越えていく。

「すげえなあ。びゅーてぃほー」

タカが感心したように言った。

「Beautiful」

トムがネイティブの発音で言い直す。ママもカウンター越しに視線を落とした。

画面の中でスロー映像が流れ、棒がもう一度、あり得ない角度で大きくしなった。

俺はハーパーのグラスを手にしたまま、ボソと言った。

「よくあの棒、折れねえな」

三人が一斉にこっちを見た。

「……健一さん」
「なんだよ」

タカが笑った。

「やっぱ俺、健一さんのこと全然わかんねえっす」

俺はハーパーを一口飲んだ。

「そのくらいでいいんじゃねえの?」

なあ、あんた。

あんたが「よく知っている」と思っている、その人。

本当にその人を見てるか?

それとも。

知っていることをつなぎ合わせて、自分で作ったその人を見てるか?

まあ。

わからないところが残っているくらいの方が、人付き合いってのは面白いのかもしれないな。

また、葵で会おう。

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