
知っている人
長く付き合っていれば、その人のことをよく知っていると思う。 好きなものも、嫌いなものも、いつもの酒も知っている。でも、知っていることが増えるほど、その人が分からなくなることだってあるのかもしれない。
なあ、あんた。
長く付き合っている人のことなら、よく知ってるか?
好きな食べ物。嫌いな食べ物。好きな本。好きな映画。いつも飲んでいる酒。
そういうものをたくさん知っていれば、その人のことを「よく知っている」と言えるんだろうか。
それとも俺たちは。
知っていることを材料にして、勝手に「こういう人だ」と完成させているだけなんだろうか。
カラン。
グラスの中で氷が鳴った。
今日も俺の前にあるのは、I.W.ハーパーだ。
「そういえば健一さん、スコッチって飲まないっすよね」
タカが俺のグラスを見ながら言った。
「飲まないな」
「バーボン派だから?」
「いや。苦手なんだよ」
「スコッチが?」
「ああ」
「何が駄目なんすか?」
「煙い」
タカの手が止まった。
「……煙い?」
「煙いだろ、あれ」
カウンターの向こうでママが笑った。
「ピート香のこと?」
「知らん」
「知らないの?」
「名前なんか知らんよ。煙いもんは煙い」
「健一さん、意外とお酒に詳しくないんすね」
「詳しいなんて言ったことねえぞ」
「だって、いつもハーパーじゃないですか」
「そうだな」
「じゃあ、8年と12年だったらどっちが好きなんです?」
「わからん」
「え?」
「飲み比べても、たぶんわからん」
タカが俺のグラスを見た。
「……ハーパー好きなんですよね?」
「別に」
「別に?」
「嫌いじゃないけどな」
「じゃあ、なんで毎回……」
そこまで言って、タカが口を閉じた。
「ああ」
トムも小さく頷いた。ママは何も言わなかった。
みんな知っている。
昔、真人が喧嘩をした日のことを。誰かを守るために殴って、殴られて。その後で俺が飲んだ酒が、ハーパーだったことを。
「そういうことだ」
俺が言うと、タカはしばらく考えていた。
「じゃあ、好きだから飲んでるわけじゃないんすね」
「そうなるな」
「なんか変な感じっすね」
「何が?」
「健一さんって、酒にこだわりがある人だと思ってたから」
「勝手に決めんな」
「だって、いつもバーボン飲んでるオッサンですよ?」
「誰がオッサンだ」
「そこは否定できないでしょ」
ママが笑った。まあ、否定はできない。
「じゃあさ」
トムが面白そうにこっちを見た。
「健一さん、焼き鳥屋では何を頼む?」
「なんだよ急に」
「砂肝」
タカが言った。
「ハツも食いそうっすね。塩で」
「頼まねえよ」
「え?」
「アスパラベーコン巻き」
沈黙。
「……アスパラベーコン巻き?」
「そうだよ」
「健一さんが?」
「俺が食っちゃいけねえのか」
「いや、そうじゃないっすけど」
「うまいだろ、アスパラベーコン」
「うまいっすけど……」
タカは何か納得できないらしい。
「じゃあ甘いものは?」
「好きだぞ」
「え?」
「なんだよ」
「いや、食べないと思ってた」
「食うよ」
「何が好きなんすか?」
「ミスド」
「ミスド?」
「ポン・デ・リングとか」
ちょっと待ってください、とタカが額を押さえた。
「さっきから俺の中の健一さんが、どんどん壊れてるんすけど」
「だから勝手に作んなって」
トムが笑っている。
「映画は?」
「映画?」
「恋愛映画とか見ないでしょ?」
「昔、『世界の中心で、愛をさけぶ』を映画館で見たぞ」
「誰と?」
「一人で」
「泣いた?」
「号泣した」
タカが天井を見上げた。
「もうやめましょう」
「お前が聞いたんだろ」
「なんか知りたくなってきた」
トムが完全に面白がっている。
「好きな小説は?」
「『レダ』」
「栗本薫の?」
「そう」
「おお」
タカが少し安心したような顔をした。
「それはなんかわかる。じゃあ漫画は?」
「刃牙」
「なんで急にそっち行くんすか」
「何がだよ」
「『レダ』から刃牙に行かないでしょ、普通」
「行ったんだからしょうがねえだろ」
ママがくすくす笑っている。
「嫌いな飲み物は?」
「野菜ジュース」
「毎朝飲んでるって言ってませんでした?」
「飲んでる」
「好きじゃないんすか?」
「嫌いだよ。まずい」
「じゃあなんで毎日飲んでんすか」
「真人が飲めって言うから」
「……健一さん、真人君の言うこと聞くんすね」
「身体にいいって言うんだからしょうがねえだろ」
「嫌いなのに?」
「嫌いでも身体にはいいんだろ」
「そこは妙に素直なんすね」
うるせえ。
「じゃあ嫌いな食べ物」
「ナス」
「理由は?」
「ナスだから」
「それ理由じゃないっすよ」
「嫌いな食い物に理由なんかいるか」
ひとしきり笑ったあと、トムが言った。
「面白いね」
「何が?」
「僕たち、健一さんのこと、かなり知ってると思ってた」
「知ってるだろ」
「うん。でも、知らなかった」
「そりゃ知らんことくらいあるだろ」
「そうじゃなくて」
トムは少し考えた。
「知ってることが増えたのに、前よりわからなくなった」
タカも頷いた。
「それはわかる。俺、健一さんってもっとこう……渋いオッサンだと思ってたんすよ」
「なんだよ、渋いオッサンって」
「ハーパー飲みながら人生について面倒くさいこと考えてる人」
「だいたい合ってるじゃねえか」
「でもポン・デ・リング食うんでしょ?」
「食うよ」
「アスパラベーコン巻きも?」
「食う」
「セカチューで泣く?」
「泣いた」
「刃牙?」
「好きだよ」
「わからん」
「知らねえよ」
ママが新しい氷をグラスに落とした。
「でも、人ってそんなものじゃない?」
「ママ?」
「好きなものを並べたって、その人の説明書にはならないでしょう?」
俺はグラスを見た。
確かにそうかもしれない。
ハーパーが特別でも、ハーパーの味に詳しいわけじゃない。野菜ジュースが嫌いでも、毎朝飲んでいる。恋愛映画で泣くし、男たちが殴り合う漫画も好きだ。
その一つ一つは、全部俺だ。
でも。
全部並べたところで、それが俺なのかと言われると、よくわからない。
「じゃあさ」
タカが言った。
「何を知ってたら、その人のことを知ってるって言えるんすかね」
「知らん」
「そこは考えてくださいよ」
「なんで俺が答え持ってる前提なんだよ」
「いつもそれっぽいこと言うじゃないですか」
「それっぽいだけだよ」
ママが笑った。
「それは知ってるわ」
「おい」
「じゃあ、これはどう思います?」
タカがスマホを取り出して、カウンターに置いた。
画面でショート動画が流れている。世界陸上の棒高跳びだった。選手が助走を始め、長い棒を地面に突き立てる。棒が弓なりに大きくしなり、その反動で身体が宙へ跳ね上がった。
バーを鮮やかに越えていく。
「すげえなあ。びゅーてぃほー」
タカが感心したように言った。
「Beautiful」
トムがネイティブの発音で言い直す。ママもカウンター越しに視線を落とした。
画面の中でスロー映像が流れ、棒がもう一度、あり得ない角度で大きくしなった。
俺はハーパーのグラスを手にしたまま、ボソと言った。
「よくあの棒、折れねえな」
三人が一斉にこっちを見た。
「……健一さん」
「なんだよ」
タカが笑った。
「やっぱ俺、健一さんのこと全然わかんねえっす」
俺はハーパーを一口飲んだ。
「そのくらいでいいんじゃねえの?」
なあ、あんた。
あんたが「よく知っている」と思っている、その人。
本当にその人を見てるか?
それとも。
知っていることをつなぎ合わせて、自分で作ったその人を見てるか?
まあ。
わからないところが残っているくらいの方が、人付き合いってのは面白いのかもしれないな。
また、葵で会おう。
次は、どこへ?
評価するにはログインしてください
対話
まだ言葉はありません。