
ゴングが鳴ったあと
理由もなく誰かを嫌いになることがある。そして、ときにはその嫌悪を正しいものにするために、あとから理由を探してしまう。 嫌いなままでいい。腹が立ったままでもいい。それでも、その試合を終わらせることはできるんだろうか。
なあ。
あんたには、理由はよく分からないけれど、なんとなく苦手なヒトっているか?
何かされたわけじゃない。嫌なことを言われた覚えもない。仕事で迷惑をかけられたわけでもない。
でも、なんか嫌。
声なのか、話し方なのか、顔なのか。そんなことを考えてみても、どうにもこれといった理由が見つからない。
それでも、なんか嫌。
あれって、いけないことなんだろうか。
カラン。
『葵』の重い木製ドアを押すと、タカがカウンターでスマホを眺めていた。
ママが何も聞かずにI.W.ハーパーを置く。氷が小さく鳴った。
「健一さん」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないですよ」
「お前がスマホ見ながら俺を待ってるときは、ろくな話じゃない」
「偏見じゃないですか?」
「経験則だ」
隣でトムが笑った。
「で、何だよ」
「いやね。俺、なんとなく苦手なヒトがいるんですよ」
「知らんがな」
「相談終わっちゃった」
俺はハーパーを一口飲んだ。
「何かされたのか?」
「いや、別に」
「嫌なこと言われたとか?」
「それもないですね」
「じゃあ、なんで嫌いなんだよ」
「それが分からないから聞いてるんじゃないですか」
「俺に聞かれても知らん」
タカは不満そうな顔でスマホを伏せた。
「でも、そういうヒトいません?」
まあ、いる。
別に悪いヒトじゃない。周りから嫌われているわけでもない。むしろ評判はいい。なのに、なぜか俺とは合わない。そういうヒトは、確かにいる。
「何か理由があるんじゃないのか?」
トムが言った。
「話し方が気に入らないとか、昔嫌いだった奴に似てるとか」
「そう思って探したんですけどね」
「何を?」
「嫌いな理由」
俺はタカを見た。
「探すのか?」
「探しません?」
「好きな理由も?」
タカが黙った。トムも黙った。俺も少し考えた。
そういえば。
誰かを好きになったとき、俺たちは理由なんて探すだろうか。もちろん聞かれれば答える。優しいから。話が合うから。一緒にいると楽だから。でも、それを一つ一つ検証して、「よし、これなら俺がこのヒトを好きなのも妥当だ」なんて確認した覚えはない。
好きなものは好き。それで済ませる。
「嫌いだと理由が欲しくなるのか」
俺が言うと、タカが頷いた。
「そうなんですよ。なんでだろうと思って」
「自分を守るためじゃねえか?」
トムが言った。
「そのヒトが危ないかもしれないって思ってるから、何が危ないのか探すとか」
なるほど。嫌悪が警報なら、その原因を探すのは自然だ。何に気をつければいいのか分からない警報ほど厄介なものはない。
オススメされてもないのに、自分で警報を鳴らしておいてその原因を探す。
でも、それだけだろうか。
「逆もありそうだな」
「逆?」
「理由もなくヒトを嫌ってる自分が嫌なんじゃないか?」
タカが俺を見た。
「どういうことです?」
「俺は理由もなくヒトを嫌うような奴じゃない。そう思いたいんじゃないかってこと」
「ああ」
「だから探す。あいつはこういうところがある。こういうことを言った。こういう態度を取った。だから俺が嫌うのは当然だって」
トムがグラスを置いた。
「嫌いになった理由を探してるんじゃなくて、嫌ってもいい理由を探してるってことか」
「かもしれない」
タカが腕を組んだ。
「それ、格好悪いですね」
「何が?」
「防御するために相手を殴るの」
俺は眉をひそめた。
「殴ってねえよ」
「同じようなもんじゃないですか。自分が悪く見えないように、相手の悪いところを探してるんでしょう?」
「そこまで言ってない」
「でも、そういうことでしょう?」
妙に食いつく。
そういえば、こいつは昔プロレスラーだった。
「お前は殴られたら殴り返してたんじゃないのか?」
「そりゃプロレスですから」
「防御は?」
「しますよ。でも、技を全部避けてたら試合にならないでしょう?」
「喧嘩なら避けるけどな」
トムが言った。
「喧嘩じゃないですからね」
タカは笑った。
「俺、現役のころ言われたことあるんですよ。技を受けない奴は強く見えないって」
「避けた方が強いだろ」
「だから、それじゃ喧嘩なんですって」
「何が違うんだよ」
「受けて、それでも立つから格好いいんですよ」
俺はグラスの中の氷を眺めた。
受けて、それでも立つ。
「じゃあ、嫌いな奴の攻撃も黙って受けろって?」
「違いますよ」
タカはすぐに否定した。
「相手じゃなくて、自分ですよ」
「自分?」
「俺、こいつ嫌いなんだなって、一回受けりゃいいじゃないですか」
「理由もなく?」
「理由がないなら、しょうがないでしょう」
「嫌な奴だな、俺」
「そうかもしれませんね」
「そこは否定しろよ」
トムが吹き出した。タカも笑った。
でも、妙な話だ。
俺たちは自分の中に湧いてくる感情を、全部選んでいるわけじゃない。腹が立つ。怖い。羨ましい。好きになる。嫌いになる。湧いてしまったものを、湧かなかったことにはできない。
だったら、理由もなく誰かを嫌ってしまった自分を正当化するために、そのヒトの欠点を探し回るより。
俺はこいつが嫌いなんだな。
まず、それを受ける。その方がまだ、自分の感情と相手の問題を分けて考えられるのかもしれない。
「でもさ」
俺は言った。
「理由があって嫌いになった場合はどうなんだ?」
「どういうことです?」
「例えば、ひどいことをされた。腹が立った。そいつを嫌いになった。そこにはちゃんと理由があるだろ」
「ありますね」
「でも、ずっと嫌いなままってこともある」
トムが頷いた。
「理由なんか忘れてるのにな」
「あるな」
嫌いになった理由そのものを忘れてしまうこともある。あるいは、最初の理由より後から見つけた理由の方が増えていくこともある。
あいつは約束を破った。時間にルーズだ。言い方が気に入らない。人によって態度を変える。謝り方にも誠意がない。
一つ見つけるたびに、やっぱりあいつは嫌な奴だと思う。そのうち、最初の理由なんてどうでもよくなる。
「あいつがしたことが嫌い、だったのが」
俺は言った。
「あいつが嫌い、になるんだな」
「その次もありますよ」
タカが言った。
「何?」
「あいつがすることが嫌い」
嫌な言葉だった。でも、分かる気がした。
嫌いなヒトが何かをすれば、同じ行為でも悪く見える。謝れば、今さら遅い。黙れば、逃げている。反論すれば、反省していない。誰かを助ければ、いいヒトぶっている。何をしても、自分の嫌悪を補強する材料にできる。
そうなったら、もう相手の行動を見ているのか、自分の嫌悪を見ているのか分からない。
「終わらんな、それ」
トムが言った。
「終わりませんね」
タカが答えた。
「じゃあ、どうするんだよ」
「何がです?」
「嫌いになった。相手もこっちを嫌ってる。何か言えば言い返される。言い返されたらまた腹が立つ。どうやって終わるんだ?」
タカは少し考えた。
「終わらせればいいんじゃないですか?」
「だから、どうやって」
「やめる」
「嫌いじゃなくなるのか?」
「ならなくていいでしょう」
俺はタカを見た。
「嫌いなまま?」
「嫌いなまま」
「腹が立ったまま?」
「立ててればいいじゃないですか」
「相手がまだこっちの悪口言ってても?」
「言わせとけばいいでしょう」
「でも、向こうが殴ってきたら?」
「避けますよ」
「殴り返さないの?」
タカは少し笑った。
「試合、終わってるんでしょう?」
しばらく誰も喋らなかった。ママがグラスを棚に戻す音がした。
「プロレスってさ」
俺は言った。
「ゴングが鳴ったら腹が立たなくなるのか?」
「ならないこともありますよ」
「痛くなくなる?」
「なるわけないじゃないですか。痛いものは痛いですよ」
「じゃあ、なんで終われるんだ?」
タカは不思議そうな顔をした。
「ゴングが鳴ったからでしょう?」
当たり前のことを聞くなという顔だった。
「そんなもんで終われるのか?」
「終わるんじゃないですよ」
タカはグラスを持ち上げた。
「終わらせるんです」
その言葉が、妙に残った。
終わるんじゃない。終わらせる。
考えてみれば、俺たちはいろんなところでそういうことをしている。卒業式をしたからって、学校で過ごした時間が消えるわけじゃない。葬式をしたから悲しくなくなるわけでもない。仕事を辞めた翌日に、それまでの人間関係を全部忘れるわけでもない。
感情が終わったから、区切りをつけるんじゃない。
感情が終わらないから、区切りを作るのかもしれない。
ここから先は違う時間だ。そう決めるために。
「儀式みたいなもんか」
俺が言うと、ママが振り返った。
「何が?」
「終わるってこと」
「そうねえ」
ママは少し考えた。
「閉店もそうかしら」
「閉店?」
「まだ飲みたいお客さんがいても、時間になったら閉めるでしょう?」
「ママ、それ俺に言ってる?」
「さあ?」
トムが笑った。タカも笑った。俺は時計を見た。
まだ閉店時間には早い。危ないところだった。
でも、ママの言う通りなのかもしれない。
まだ話したい。まだ言い足りない。まだ分かってもらえていない。まだ相手が間違っている。まだ俺が正しいと伝わっていない。
だから、もう一言だけ。その一言に相手が返す。だったら、こっちももう一言。
いつまで経っても閉店できない。たぶん、どこかで扉を閉めるしかない。相手が納得していなくても。自分が納得していなくても。嫌いなままでも。
俺はハーパーを飲み干した。
「じゃあ、俺も帰るか」
「あれ、早いですね」
「ゴングが鳴る前に帰る」
「それ試合放棄じゃないですか?」
「うるせえ」
席を立つと、タカが笑った。
「健一さん」
「何だよ」
「俺のこと、嫌いじゃないですよね?」
「理由を探してるところだ」
「嫌いなんじゃないですか!」
トムの笑い声を背中で聞きながら、俺は扉を開けた。
夜の空気が少し冷たかった。
嫌いという感情は、たぶん簡単には消せない。理由がなくても生まれる。理由がなくなっても残る。そして、ときにはその感情を正しいものにするために、俺たちは新しい理由まで探してしまう。
でも、嫌いなヒトを好きになる必要はないのかもしれない。許す必要さえないのかもしれない。
ただ。
いつまでも殴り続ける必要もない。
試合終了のゴングが、俺たちの心の中まで静かにしてくれるわけじゃない。痛みは残る。腹も立っている。
それでも、リングを降りることはできる。
なあ、あんた。
あんたにも、まだ嫌いなヒトがいるか?
そのヒトに、まだ言い足りないことがあるか?
だったら、一度だけ考えてみてくれ。
その試合。
本当に、まだ続いているのか?
それとも。
ゴングが鳴ったあとも、殴り続けているだけなのか?
また、葵で会おう。
次は、どこへ?
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