
えこひいき
誰にでも公平であることは、たぶん正しい。 それでも俺たちは、知らない二人より大切な一人を選ぶことがある。友人も家族も、他の誰かと同じには扱えない。その不公平を、俺たちは何と呼べばいいんだろう。
なあ。
あんたは、ときどき考えることがあるか?
あのとき、別の道を選んでいたら。あの会社に入っていたら。あのヒトと付き合っていたら。あそこで諦めずに続けていたら。そんな「もう一人の自分」を想像することがある。
俺もある。
でも、あいつって本当に俺なんだろうか。
カラン。
『葵』の重い木製ドアを押すと、カウンターの奥でタカが妙な顔をしていた。困っているというより、納得がいかないという顔だ。面倒な話になりそうなので、気づかなかったことにして席に着いた。
ママが何も聞かずにI.W.ハーパーを置く。氷が小さく鳴った。
「健一さん」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないでしょう」
「顔に書いてある」
「何がです?」
「面倒くさい話を聞いてくださいって」
「失礼だなあ」
隣でトムが笑った。
「諦めろ。今日は俺もまだ聞いてない」
「じゃあお前が聞け」
「嫌だ」
「ひどくないですか、二人とも」
そう言いながら、タカは勝手に話し始めた。今日、学生時代の友人に偶然会ったらしい。大学を出て銀行に入り、そのまま勤め続けて、今では支店長になっているという。
「家も買って、子供も二人いて。なんか、ちゃんとした人生なんですよ」
「お前の人生はちゃんとしてないのか?」
「そういう意味じゃないですけど」
「じゃあどういう意味だ」
タカは少し考えてから、グラスの氷を揺らした。
「俺も、あのときもっと真面目に就職活動してたら、あんな感じだったのかなって」
「無理だろ」
「即答しないでくださいよ」
トムが吹き出した。
「銀行員のタカか。見てみたい気はするな」
「でしょう?」
「三日で札束持って逃げそうだ」
「なんで犯罪者になるんですか」
俺も笑った。でも、妙なところが引っかかった。
「銀行員になったお前って、本当にお前なのか?」
「俺でしょう」
「なんで?」
「なんでって、俺が銀行に入っただけじゃないですか」
「でも、探偵にはなってない」
「まあ」
「今までの依頼人にも会ってない。仕事で失敗したことも、うまくいったこともない。トムとも会ってないかもしれない」
タカは俺の顔を見た。
「健一さんとも?」
「たぶんな」
「それはちょっと寂しいですね」
「俺は平気だ」
「そこは寂しがってくださいよ」
また三人で笑った。
それで終わるはずだったんだけどな。
俺はグラスを傾けながら、銀行員のタカを想像していた。スーツを着て、朝礼に出て、融資先の資料なんかを読んでいる。実際の銀行員が何をしているのかよく知らないので、想像はその辺で止まった。
ただ、そいつが今ここにいるタカとは、ずいぶん違うことだけは分かる。探偵として会ったヒトたちを知らない。失敗して覚えたことを知らない。逆に、今のタカが知らない何かを毎日覚えている。
同じ顔で、同じ名前でも、十年もすればかなり別の奴になっているんじゃないか。
「記憶が違うんだよな」
口に出していた。
「何がです?」
「銀行員のお前と、今のお前」
「そりゃ違うでしょうね」
「記憶が違ったら、同じお前なのか?」
タカが嫌そうな顔をした。
「やっぱり健一さんが面倒くさくしてるじゃないですか」
「俺も今そう思った」
トムがため息をついた。
「ほっとけ。どうせ止まらん」
ひどい言われようだ。
でも、記憶が違えば経験も違う。経験が違えば、考え方だって変わる。昔、大失敗したから慎重になった。誰かに騙されたから疑うようになった。逆に、どうしようもないときに助けてもらったから、困っている奴を見ると放っておけなくなった。
そんなものを全部取り除いても、俺は今と同じ俺なんだろうか。
「記憶って、情報だよな」
「まあ、そう言えなくもないんじゃないですか」
「じゃあ俺たちって、経験から得た情報にずいぶん作られてるんだな」
「それだけじゃねえだろ」
トムが言った。
「生まれつきの性格だってあるんじゃねえのか?」
「あるかもしれん」
「じゃあ終わりだ」
「でも、それも自分で選んだわけじゃない」
「終われよ」
タカが笑った。俺も笑ったが、頭の中ではまだ続いていた。
生まれつきの性格があるとしても、それを自分で設計した覚えはない。身体も、脳も、育った場所も選んでいない。そこへ生きているうちに、いろんな経験が積み重なっていく。自分で選んだものもあれば、勝手に降ってきたものもある。
それ言ったら、今の俺ってどこからどこまでが「俺」なんだろう。
「なんか嫌ですね」
タカが言った。
「何が?」
「健一さんの話を聞いてると、俺がデータの塊みたいに思えてきます」
「奇遇だな。俺もちょうどそう思ってた」
「思わないでくださいよ」
そこでタカが、何か思いついたらしい。口元が少し笑っていた。嫌な顔だ。
「じゃあ健一さん」
「なんだ」
「うちの顧客データベースにも自我があるんですか?」
「飛んだな」
「だって、情報の集まりなんでしょう?」
「お前と顧客データベースを同列に扱うのは、さすがに顧客データベースに失礼だろ」
「そっちですか?」
トムが笑った。
「でも、どうなんです? データベースにも自我って宿るんですかね」
「知らん」
「基本的人権は?」
「ねえよ」
答えたのはトムだった。あまりにも速かった。俺とタカは同時にトムを見た。
「なんだよ」
「いや」
タカが笑いを堪えながら聞いた。
「なんでないんです?」
「データベースだからだよ」
「データベースには人権がない?」
「当たり前だろ」
「もし自我があっても?」
「あるわけねえだろ」
「もしあったら?」
「うるせえな」
トムはグラスを一口飲んだ。
「ヒトじゃねえんだから、人権なんかあるわけねえだろ」
一瞬、妙な沈黙が落ちた。タカが俺を見た。俺もタカを見た。
「トムさん」
「なんだよ」
「それ、差別じゃないですか?」
「誰に対するだよ」
「データベースに」
「知るか!」
俺は吹き出した。
「データベース差別か」
「新しいですね」
「新しくねえよ。存在しねえよ、そんなもん」
トムは本気で面倒くさそうだった。そりゃそうだ。俺だってRDBMSに基本的人権を認めろと言われたら、認めない。理由を聞かれれば、たぶんトムと同じことを言う。
ヒトじゃないから。
そこで、少しおかしくなった。
俺たちはさっきまで、自我とは何かなんて面倒なことを考えていた。記憶なのか。経験なのか。生まれつきの何かなのか。境界なんて一つも分からなかった。
なのに、人権の話になった途端、ずいぶん簡単に線を引いた。
こっちはヒト。こっちはヒトじゃない。だから、こっちだけ特別。
「人権って、ものすごいえこひいきなのかもな」
トムが嫌そうに俺を見た。
「今度はなんだ」
「だって、人権だぞ。名前からしてヒトだけ特別扱いしますって言ってる」
「当たり前だろ」
「うん。当たり前なんだよな」
その「当たり前」が、妙に面白かった。
別に人権に文句があるわけじゃない。俺だってなくなったら困る。でも俺たちは、思っている以上にいろんなものを特別扱いしている。
ヒトを特別扱いする。その中でも、自分の国や街や会社みたいな集団を特別に思うことがある。もっと狭くなれば、友人や家族を特別扱いする。
「トム」
「まだやるのか」
「自分の子供一人と、知らないヒト二人が同時に溺れてたら、どっち助ける?」
トムの顔から、さっきまでの笑いが消えた。少し考えるかと思った。考えなかった。
「子供だ」
「二人より一人?」
「子供だ」
俺は頷いた。
「不公平だな」
「そうだな」
意外だった。てっきり「知るか」と返されると思っていた。
でもトムは、不公平じゃないとは言わなかった。不公平だと分かったうえで、それでも選ぶらしい。たぶん俺も同じだ。
「タカは?」
「俺も大切なヒトを助けますよ」
「二人より一人でも?」
「たぶん」
「ママは?」
ママはグラスを磨いていた手を止めた。
「私?」
「大切なヒト一人と、知らないヒト二人」
「そうねえ」
少し考えてから、ママは笑った。
「大切なヒトかしら」
「不公平じゃない?」
「不公平ね」
それだけ言って、またグラスを磨き始めた。
俺はハーパーを飲んだ。なんだ。みんな不公平じゃないか。
もちろん、いつでもそれでいいわけじゃない。トムが警官だったころ、知り合いだからと犯罪を見逃していたら困る。俺だって仕事で、気に入った後輩だけ評価していたら問題になる。
公平でなければならない場所は確かにある。
でも、すべての場所で公平であることを求められたら。俺は家族と知らないヒトを同じように扱わなければならない。長い付き合いの友人も、今日すれ違った誰かも同じ。好きなヒトも嫌いなヒトも同じ。
それは公平なのかもしれない。立派なのかもしれない。
でも、なんだろうな。ずいぶん寂しい気がした。
「結局、ヒトってえこひいきするんですね」
タカが言った。
「そうみたいだな」
「じゃあ、えこひいきって悪いことじゃないんですか?」
「知らん」
「またそれですか」
「職場でやったら怒られるだろ」
「家族なら?」
「知らんって」
「友達なら?」
「しつこいな」
トムが笑った。
「お前ら、言葉に答えを背負わせすぎなんだよ」
俺とタカがトムを見た。
「えこひいきって呼べば悪く聞こえる。特別な相手って言えば、ちょっといい話に聞こえる。それだけじゃねえのか」
「じゃあ同じものなんですかね」
「知らん」
「トムさんまで」
ママが笑った。
「でも、誰にでも同じように作ったら、この店はつまらないわね」
俺たちはママを見た。
「何が?」
「お酒」
ママは俺の前にあるグラスを指した。
「健一さんには何も聞かずにハーパーを出すけど、初めて来たお客さんにはしないでしょう?」
「ああ」
「タカちゃんが落ち込んでる日は、いつもより少し話を聞くし」
「そうだったんですか?」
「気づいてなかったの?」
「はい」
「トムさんには?」
俺が聞いた。ママは少し考えた。
「少しくらい酔ってても放っておく」
「扱いが雑じゃねえか?」
トムが笑った。ママも笑った。
「みんな同じじゃないわよ」
それだけだった。別に深いことを言ったつもりはないんだろう。でも俺には、その言葉が妙に残った。
みんな同じじゃない。考えてみれば当たり前だ。
俺はタカとトムを同じようには扱わない。二人とも友人だが、同じ友人ではない。家族ならなおさらだ。それぞれに積み重ねてきた時間があって、記憶があって、関係がある。だから扱いが変わる。
最初は、自我が情報の集合なんじゃないか、なんて話だった。俺というものが、記憶や経験の積み重ねで出来ているのだとしたら。
たぶん、「誰が大切か」という感覚だって、その積み重ねの中にある。
一緒にいた時間。助けてもらったこと。腹を立てたこと。許したこと。笑ったこと。
そんなものを抱えた結果として、俺は世界中の誰かではなく、目の前のこいつを選ぶ。それを不公平と呼ぶなら、たぶん不公平なんだろう。えこひいきと呼ぶなら、それでもいい。
「なんか、すごいところまで来ましたね」
タカが言った。
「何の話から始まったんだっけ?」
「俺が銀行員になってたらって話です」
「ああ」
「完全に忘れてたでしょう」
「忘れてた」
「じゃあ健一さんの自我、情報欠損してますよ」
トムが吹き出した。俺も笑った。
「人権剥奪するぞ」
「横暴すぎる!」
「安心しろ。お前はヒトだからあるらしい」
「さっきまでの話、全部台無しじゃないですか」
三人で笑った。ママが呆れたようにグラスを棚へ戻した。
俺は残っていたハーパーを飲み干した。
結局、自我が何なのかは分からなかった。記憶なのか、身体なのか、それとも俺たちがまだうまく名前を付けられていない何かなのか。RDBMSに自我が宿るのかも知らない。
ただ、一つだけ妙に納得したことがある。
俺たちは、誰に対しても同じではいられない。同じであるべき場所では、同じであろうと努力する。でも、それでも特別な誰かがいる。理由を全部説明できなくても、そのヒトだけは他の誰かと同じにはならない。
俺は席を立った。
扉を開けると、夜の街にいくつもの明かりが見えた。あの一つ一つの下で、きっと誰かが誰かを特別扱いしている。世界中の誰よりも。
正しいかどうかは知らない。
でも、もしそれを全部やめたら。俺たちは今より公平になるんだろう。
そして。
今より少しだけ、ヒトではなくなるんだろうか。
なあ、あんた。
あんたにも、他の誰かと同じには扱えないヒトがいるか?
もし、いるなら。
その不公平を、あんたは何と呼んでいる?
また、葵で会おう。
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