
善意の届く場所
誰かを助けようとした。悪意なんてなかった。むしろ、良いことをしたつもりだった。 でも、相手がそれを望んでいなかったとしたら。その善意は、いったい誰のためのものだったんだろう。
なあ。
あんたは最近、誰かのために「良いこと」をしたか?
困っている奴に声をかけたり、落とし物を拾ってやったり、狭い道で進路を譲ったり。
自分の時間や手間を少し削って、見知らぬ誰かのために差し出した。
そういうことをした後って、少しだけ気分がいい。
別に褒めてもらいたいわけじゃない。ただ、「今日の俺も、それほど捨てたもんじゃなかった」と、自分に小さく頷きたくなるんだ。
でもさ。
その「良いこと」ってやつは、どこまで見届ければ、本当に良いことだったと言えるんだろうな。
カラン。
『葵』の重い木製ドアを押す。
この扉をくぐると、街の喧騒と、一日の中で溜め込んだ余計なものが、少しずつ身体から剥がれていくような気がする。
カウンターに腰を下ろすと、ママが何も聞かずにI.W.ハーパーを置いた。氷が、もう一度小さく鳴る。
「健一さん、聞いてくださいよ」
カウンターの端で、タカが絵に描いたような不満顔を浮かべていた。
「嫌だね」
「まだ何も言ってないでしょう」
「お前がそんな顔で話しかけてくるときは、ロクな話じゃないと相場が決まってる」
「ひどいなあ」
隣の席でトムが口元を緩めた。
「聞いてやってくれよ、健一。俺はもう同じ話を三回聞かされた」
「なら打ち切りだ。腹いっぱいは身体に悪い」
「健一さんってば!」
「……はぁ。短く話せ」
タカは待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「今日、駅でおばあさんを助けようとしたんですよ」
「ほう」
「ものすごく大きな鞄を持っててですね。誰が見ても大変そうだったんです」
「それで?」
「『持ちますよ』って声をかけたんです」
「まっとうな市民の行動だな」
「でしょう?」
一瞬で誇らしげな顔になるタカを、俺は冷ややかに見た。
「でも、断られたんです」
「話は終わりだな。一杯飲んで帰れ」
「違いますよ。どう見ても重そうだったから、『遠慮しなくていいですよ』って、もう一度言ったんです」
「……お前、相変わらずだな」
「何がです?」
「親切の押し売りがしつこい」
タカの言い分によれば、その荷物には何やら大切なものが入っていたらしい。
見知らぬヒトに任せるわけにはいかないとおばあさんは断り、タカは落とさないから大丈夫だと食い下がり、おばあさんはさらに固辞した。
「で、三十秒くらい押し問答してたんです」
「ふうん」
「そしたら後ろから来たヒトに、『邪魔なんだよ!』って怒鳴られて」
俺はグラスをコースターに戻した。
「どこでそんな押し問答をした」
「改札を抜けた先の、あの細い通路です」
「時間は?」
「夕方の六時半くらいですかね」
「最低だな」
「そこまで言います?」
「帰宅ラッシュのど真ん中で、駅の細い動線を三十秒止めたわけだ」
「止めたというか……立ち止まってはいましたけど」
「止めたんだろ」
「……はい」
トムが呆れたように笑いながら、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「で、こいつが言うわけだ。『俺は親切心でやったのに、なんで怒られなきゃいけないんだ』ってな」
「だってそうじゃないですか」
タカの顔には、まだ純粋な困惑が残っていた。
俺はハーパーを一口飲んだ。
「まあ、お前に悪意がなかったことだけは認めてやる」
「ですよね」
「だが、お前が邪魔だったのも事実だ」
「うっ……」
「その三十秒で、何人くらい通った?」
「さあ……百人くらいですかね」
「じゃあ百人の時間を三十秒ずつ使ったわけだ」
タカが眉を寄せた。
「そんな意地悪な算数あります?」
「合計三千秒だな」
「五十分か」トムが即座に答えた。
「なんですか、その不吉な足し算は」
「事実だろ。百人が三十秒ずつ予定を狂わされた」
「たかが三十秒ですよ?」
「その三十秒で電車に乗り遅れた奴がいたかもしれない」
「……まあ」
「大事な待ち合わせに遅れたかもしれない」
「……」
「人生を賭けた採用面接だったかもしれないぞ」
「プロポーズだったかもしれないな」トムが余計な追撃を入れる。
「なんでプロポーズまで行くんですか」
「人生の岐路なんて、案外そういうくだらない三十秒で枝分かれするもんだ」
「じゃあ、そのヒトが振られたら俺のせいなんですか?」
「知らん」
「知らんって」
俺は笑った。
もちろん、本気でタカにそんな責任があると思っているわけじゃない。三十秒道を塞いだから人生が狂った、なんてところまで責任を取れと言われたら、誰も街を歩けなくなる。
でも、ふと思った。
「じゃあ、逆はどうだ?」
「逆?」
「お前が声をかけたおかげで、そのばあさんが三十秒休めた」
「はあ」
「もしそのまま歩いてたら、階段で足を滑らせて大怪我してたかもしれない」
「……まあ、可能性はありますね」
「なら、お前は老人を大怪我から救ったことになる」
トムが楽しそうに笑った。
「いいぞ、タカ。人命救助だ」
「いやいや、そんな大袈裟な」
「なんでだ?」俺が聞くと、タカは困った顔をした。
「だって、本当に転んだかどうかなんて分からないじゃないですか」
「乗り遅れた奴がいたかどうかも分からんぞ」
「あ」
そうなんだよな。
悪い結果については、「そこまで俺の責任じゃない」と言いたくなる。
でも、良い結果についても、「そこまで俺の手柄じゃない」と言いたくなる。
どちらも、自分には見えないからだ。
「なんか、どんどん面倒な話になってきましたね」
「だから最初から嫌だと言ったんだ」
「健一さんが面倒にしたでしょうが」
トムが静かにグラスを置いた。
「結果なんてもんは、最初から全部見えるわけじゃねえよ」
「元警察官の言葉だと思うと重いですね」
「現場なんてそんなもんだ。止めるべきだったのか、行かせるべきだったのか。その場じゃ、自分が持ってる材料で決めるしかねえ」
「結果的に間違ってたことも?」
「山ほどある」
「後悔します?」
「そりゃな」
トムは少しだけ目を細めた。
「でもな。全部のカードがめくられた後になって、あのときの自分を裁くのも違うと思うぞ」
「あのときの自分?」
「あのとき知らなかったことを、今は知ってる。それで『なんであんな判断をした』って言ったって仕方ねえだろ」
俺は黙ってグラスを見た。
あのとき見えていたもの。
あのとき知っていたこと。
その限られた中で考えて、選んだ。
俺たちにできるのは、たぶんそこまでだ。
でも。
それだけでいいんだろうか。
「じゃあさ」俺は言った。「『良いことをしようとした』なら、結果が悪くても良いことなのか?」
トムが黙った。タカも黙った。
「極端な話、『あいつのためを思ってやった』って言えば、何でも許されるのか?」
「それは違うでしょう」タカが答えた。
「なんで?」
「だって、相手がどう受け取ったかを無視したら、それはただの押し付けじゃないですか」
「ばあさんは断ったぞ」
「あ」
「お前は、ばあさんのためだと思った。でも、ばあさんは要らないと言った」
「……はい」
「それでもお前は続けた」
「はい」
「じゃあ、誰のための『良いこと』だったんだ?」
タカは答えなかった。俺も答えを持っているわけじゃなかった。
困っているヒトがいたら助ける。たぶん、それは良いことだ。
でも、助けられる側が望んでいなかったら?
その親切のために、別の誰かが困っていたら?
その先で何が起きたのか、自分には見えなかったら?
どこまで考えればいい?
全部か? そんなものは無理だ。
じゃあ、見えるところまで?
どこまでが「見えるところ」なんだ?
考えれば考えるほど、「良いこと」という言葉の輪郭がぼやけていく。
「難しいわね」
ママが言った。いつの間にか、グラスを磨く手を止めていた。
「ママはどう思う?」タカが聞いた。
ママは少し考えた。
「良いことって、自分で決めるものなのかしら」
俺たちは黙った。
「どういうことですか?」
「タカちゃんは、おばあさんを助けようとしたんでしょう?」
「はい」
「それはタカちゃんの気持ちよね」
「はい」
「でも、助かったかどうかを決めるのは、おばあさんじゃない?」
タカはしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、俺が言えるのは、『良いことをした』じゃなくて、『良いことをしようとした』までなんですかね」
ママは答えなかった。
ただ、磨いていたグラスを棚に戻した。コトン。
「最初に声をかけたときは、そうだったんでしょうね」
「最初?」タカが顔を上げた。
「おばあさんを助けたかったんでしょう?」
「もちろんです」
「じゃあ、断られた後は?」
タカが止まった。
「……え?」
「二度目に『遠慮しなくていいですよ』って言ったとき」
ママはそれだけ言って、また別のグラスを手に取った。
タカは何も言わなかった。俺も、何も言えなかった。
最初は、きっと親切だった。
重そうだった。だから助けようと思った。
たぶん、そこまでは単純だった。
でも、断られた。
それでも手を伸ばした。
そのときも、本当に同じだったんだろうか。
老人を助けたかったのか。
遠慮していると思ったのか。
せっかく声をかけたのだから、受け入れてほしかったのか。
それとも。
親切な自分でいたかったのか。
俺はグラスの中の氷を見た。
なんだ。
結果どころか、自分の気持ちさえ、よく分からないじゃないか。
仕事で後輩に何かを教えたとき。
家族に「お前のためだ」と言ったとき。
友人に、頼まれてもいない助言をしたとき。
あれは本当に、相手のためだったんだろか。
もちろん、そうだったと思いたい。
商売や打算ではなく、純粋に相手のためだったと。
でも、その中にほんの少しだけ、
頼られたい。
正しいことを言いたい。
良いヒトでいたい。
そんなものが混ざっていなかったと、俺は言い切れるんだろうか。
「……面倒くさいですね、人間って」タカが呟いた。
「今さら気づいたのか」
「健一さんは分かってたんですか?」
「まさか」
トムが鼻で笑った。
「分かってる奴は、こんな店で酒飲みながら考え込んだりしねえよ」
「違いない」
三人で笑った。ママも少しだけ笑った。
それで話は終わった。
いや。終わったことにした。
俺は残っていたハーパーを飲み干した。氷が、カランと鳴った。
たぶん俺たちは、自分のしたことがどこまで届いたのかなんて、一生知ることはできない。
誰かにかけた一言が、そのヒトを救うこともある。傷つけることもある。何も残さないことだってある。
その先で何が起きるのか。全部を見届けることなんてできない。
だから、せめて自分が何を思って差し出したのか。
それくらいは分かっていたい。
……そう思ったんだけどな。
それすら、本当に分かっているんだろうか。
誰かのためだったのか。
正しいことをしたかったのか。
それとも。
正しい自分でいたかったのか。
俺は席を立った。
扉を開けると、夜の空気が少し冷たかった。
なあ、あんた。
あんたが今日、誰かに差し出したその善意。
その先で何が起きたのかは、きっと全部は分からない。
でも、その善意がどこから来たのか。
あんたは、本当に知っているか?
また、葵で会おう。
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