
お一人様戦闘力
一人ラーメン、一人旅、一人遊園地。そして一人鍋。 一人でいることの難しさを数値化し始めたオッサンたちは、やがて「そもそも誰と戦っているんだ」という、どうでもいい問題にたどり着く。
なあ、あんた。
あんたは、どこまで一人でいられる?
一人ラーメン。一人焼肉。一人旅。このあたりは、まあ「日常」の範疇だろう。
じゃあ、これはどうだ。
金曜の夜。ハレの日の解放感に満ちた学生や、一週間の労働を終えて出来上がっている会社員で満席の居酒屋。その喧騒の真ん中に一人で入り、一人で注文し、一人で食い、一人で飲む。誰とも一言も言葉を交わさず、会計を済ませて夜の街へ出る。
俺はある。
そして、店を出た瞬間に思った。
――勝った、と。
カランコロン。
ドアベルの小さな高音が鳴ると、ようやく俺の一日が終わる気がする。いつもの席に腰を下ろすと、ママは何も言わずにハーパーのグラスを置いた。氷が小さく硬い音を立てる。
「で」
タカがグラスに手を伸ばしながら言った。
「何に勝ったんです?」
「何がだ」
「さっきの一人居酒屋ですよ。『勝った』と思ったんですよね」
「思った」
「何にです?」
俺はグラスを持ち上げ、琥珀色の液体を揺らした。
「……さあな」
「自分で勝ったと言っておいて、相手が分からないんですか?」
「勝った感覚だけが残ってるんだ」
「だから、誰に」
「分からん。だが、俺は勝った」
隣でトムが小さく鼻を鳴らした。
「自分だろ」
「何がだ」
「一人で入るのを躊躇う、くだらない自尊心に勝ったんだよ」
「そういう綺麗側に回収するな」
「綺麗ごとじゃねえよ。事実だ」
「俺はもっとこう……なにか不可視の壁を越えたんだ」
「だから、何の壁だよ」
タカが可笑しそうに口元を緩めた。
「じゃあ健一さん、『お一人様戦闘力』が相当高いんですね」
「なんだそりゃ」
「一人で行動する耐性ですよ。あるいは独立度というか……まあ、レベルみたいなもんです」
トムが興味なさそうにグラスを傾けた。
「……どれくらいだ」
「何がだ」
「俺のレベルだ」
タカが腕を組み、天井を見上げた。
「金曜夜の一人居酒屋なら……3000くらいですかね」
「それは高いのか?」
「基準がないですからね」
「なら作れ」
「俺が作るんですか?」
「言い出したのはお前だ」
カウンターの奥で、ママが小さく息を吐いた。また不毛な議論が始まったと思っているのだろう。
「じゃあ、一人ラーメン」
「50」
「低いな」
「カウンター主体の店なら10でいい」
「一人牛丼」
「5」
「一人カフェ」
「3」
「一人映画」
「100」
「映画なんて上映中は誰も喋らねえだろ」
「なら30だ」
「簡単にブレるな」
タカも負けずに続ける。
「一人カラオケ」
「500」
「今はヒトカラなんて普通だろ」
「じゃあ300」
俺は眉をひそめた。
「時代によって数値が変動するのか?」
「当然でしょう。一人焼肉の専門店まである時代ですから」
「なるほど」
「昔なら800、今なら300ってところですね」
「歴史的補正まで入るのか」
くだらない。実にくだらないのだが、だんだん数値の精度が気になり始めてきた。
「一人旅」
「行き先によりますね。ビジネスホテルに泊まって観光なら200」
「温泉旅館は?」
タカの動きが止まった。
「……2500」
強い。
確かに高い耐性を要求される。だが、俺には金曜夜の一人居酒屋がある。学生の集団、会社帰りの宴会、怒号のような笑い声と乾杯の音。そのノイズの渦中で、俺は黙々と酒を飲み、会計を済ませて立ち去ったのだ。
「2000だ」
「何がです?」
「一人温泉旅館だ。2000に下げる。俺の一人居酒屋より下だ」
「なんで健一さんが相場を決めるんですか」
「比較検証だ」
「何の?」
「孤独耐性の数値をだ」
トムが笑った。
「完全に自分の体験を基準にしてやがる」
「黙ってろ。……じゃあ、一人遊園地はどうだ」
タカが考え込む。
俺も考えた。
一人でジェットコースターに乗り、落下ポイントで自動撮影される。歓声をあげる家族、絶叫するカップル。その写真の端で、無表情の俺が風を受けている。
『写真、ご購入されますか?』
……これは強い。
「3800」
「高いな」
「一人居酒屋を超えたのか?」
「証拠が残る」
「証拠?」
「一人でジェットコースターに乗ったという、動かぬ記録画像だ」
「誰に見せるんですか、それ」
俺は黙り込んだ。
「……知らん」
「負けたな」
「負けてない」
「何にだよ」
「俺の一人居酒屋の価値だ」
「やっぱり戦わせてたんじゃないですか」
不毛だ。
だが、こうなるとこの数値の頂点に何が君臨するのかが気になってくる。
「海の断崖絶壁に一人」
トムが思いついたように言った。
「何しに行くんだ」
「海を見る」
「なぜ断崖絶壁なんだ」
「絵面が強そうだからだ」
雑な理由だ。
だが頭の中で、一人の男を荒涼とした断崖絶壁に立たせてみる。吹き付ける潮風。打ち寄せる荒波。遠くで鳴く海鳥。視界の全てを占める水平線。
そこに一人。
……待てよ。
「これ、むしろ一人の方が自然じゃないか?」
「……確かに」
「二人で断崖絶壁に立ってたら、火曜サスペンス劇場だろ」
「何があったのか心配になりますね」
「だが一人なら?」
「人生の熟考か、詩人ですね」
「だろ? 風景に溶け込んでいる」
「じゃあ数値は低いですね。150」
トムが不満そうに眉をひそめた。
「断崖絶壁だぞ?」
「一人でいることが風景として成立しすぎているんですよ」
「でも断崖絶壁だぞ。字面の威圧感が違うだろ」
「じゃあ4980」
「なんで急に跳ね上がったんですか!」
「断崖絶壁だからだ」
「一人であることと関係なくなってるでしょう!」
ママが肩を揺らしていた。静かにツボに入っているらしい。
「他にはないのか」
俺が促すと、タカは腕を組み、トムはグラスを弄び始めた。
しばらく考えて、俺は呟いた。
「……一人鍋」
二人の動きが止まった。
「家でか?」
「店でだ」
静寂が訪れた。
俺は目を閉じた。
四人席を単独で占拠し、煮えた白菜を黙々とすくい上げる一人鍋。
強い。これは圧倒的だ。
俺の脳内で、あの日の一人居酒屋が立ち上がった。喧騒を突っぱね、たった一人で酒を飲み干した歴戦の勇者である。
対する一人鍋は微動だにしない。
一人居酒屋が踏み込む。効果なし。一人鍋は静かにお玉を持ち上げ、煮えた白菜を取り皿へ移す。
俺の一人居酒屋が膝をついた。
「……5000」
「中で何が起きたんですか」
「負けた」
「何がです」
「俺の一人居酒屋だ」
「やっぱり戦わせてたんじゃないですか!」
トムが口を挟む。
「断崖絶壁は?」
「4980」
「一人鍋の勝ちか!」
「20ポイント差の僅差だ」
「その20ポイントの差は何なんですか」
俺は少し考えた。
「鍋の『囲む』という概念の重量だ」
「何ですかそれ」
「鍋は『食べる』とも言うが、『囲む』とも表現するだろ」
「ええ」
「一人なのに、囲んでいるんだぞ。概念を」
「意味が分かりませんよ!」
「だから5000なんだ」
「全然納得いかないですけど!」
「だが断崖絶壁より強い」
「断崖絶壁の4980も意味不明ですからね!」
トムが腹を抱えて笑い出した。
ママがアイスペールに新しい氷を落とす。カラン、と小さな音がした。
「ねえ」
ママが静かに言った。
「その数値って、結局なんの数字なの?」
三人で黙り込んだ。
「……一人で行動するときの、心理的ハードルですかね」
「でも断崖絶壁は一人でも平気だったろ」
「あれは150ですからね」
「4980だ」
「トムさんは黙っててください」
ママは少し考えてから言った。
「じゃあ、他人の目線?」
俺たちはママを見る。
「他人の目?」
「一人ラーメンは、一人のお客さんがたくさんいるでしょう?」
「ああ」
「一人遊園地は?」
「周りは家族とカップルばかりです」
「一人鍋は?」
「みんなで囲むのが前提のお店ですね」
俺は頷いた。タカも何やら納得した顔をしている。
「なるほど。周りの環境と、自分との『浮き具合』に比例して数値が上がるわけか」
「そういうことか」
トムが鼻で笑った。
「だがよ。周りの連中、お前のことなんか見てたか?」
昔、一人で入ったあの居酒屋を思い出した。
学生たちは自分たちのバカ騒ぎに夢中だったし、会社員たちは上司の悪口に花を咲かせていた。俺が何を食っていたか、何を飲んでいたか。そもそも俺が一人でそこにいたことすら、誰も一瞬たりとも気にしていなかったはずだ。
「……見てないな」
「じゃあ、誰の目を気にしてたんだ?」
「……自分自身ですね」
タカが言った。
俺はグラスを持ち上げた。
「そういう綺麗ごとに回収するな」
「最初からそう言ってますよ」
「俺は勝ったんだ」
「だから、誰にです」
「分からん。だが勝った」
「最初に戻ったじゃねえか」
ママが可笑しそうに笑った。
「じゃあ、葵は?」
「何がだ」
「一人で葵に来るレベルは?」
俺たちは顔を見合わせた。
俺は一人で来る。タカも一人。トムも一人だ。
「……1だな」
「低すぎません?」
「何の感情も動かん」
「俺もだな」
「じゃあ1だ」
ママが微笑んだ。
「でも、あなたたち。一人で暖簾をくぐっても、結局いつも三人で喋ってるじゃない」
三人とも黙り込んだ。
「……これ、『お一人様』なのか?」
「一人で来てるんだから、そうでしょう」
「だが、一人で過ごしてはいないぞ」
「じゃあ違うのか?」
「さあな」
トムがグラスを傾けた。
「っていうかよ。さっきからレベルだの数値だの言ってるけどよ」
「ああ」
「お一人様なんだから、最初から誰も相手なんかいないんじゃねえの?」
俺とタカの手が止まった。
俺の頭の中では、一人居酒屋が一人温泉旅館を倒し、一人遊園地に圧迫され、海の断崖絶壁が4980まで謎の進化を遂げ、最後には一人鍋が絶対王者として君臨していた。
だが現実には、誰もがただ一人で飯を食べ、一人で旅行し、一人で遊園地に行っていただけだ。
「……違いない」
タカが吹き出した。トムも笑い、ママも声を立てて笑った。俺も笑うしかなかった。
まったく。
俺たちは一体、なんの架空リーグを開催していたんだ。
なあ、あんた。
あんたの数値は、いくつだ?
一人焼肉。一人旅。一人遊園地。
ちなみに今夜の暫定王者は一人鍋、5000。海の断崖絶壁、4980。
異論は認める。というか、異論しかないだろう。
俺はハーパーを一口飲んだ。
それにしても、あの夜の俺は一体、誰に勝った気になっていたんだろうな。
また、葵で会おう。
次は、どこへ?
評価するにはログインしてください
対話
まだ言葉はありません。